奥井舘 駒込追分(現在の文京区向丘)にあった下宿屋。
創業明治16(1883)年。美濃部達吉・正岡子規らが住んだ。
慶應大塾長も務めた奥井復太郎の生家でもある。
■新聞記事■ 明治41年4月29日東京日日新聞「博士二一名出しためでたい下宿屋」 明治41年4月29日読売新聞「珍らしき下宿屋―二十一名の博士を出す」
■夏目漱石「正岡子規」(「ホトトギス」十一巻十二号 「漱石全集」所収)■ …正岡(が)…駒込追分奥井の邸内に居つた時分は 一軒別棟の家を借りていたので下宿から食事を取り寄せて食つていた…
■飄亭茶話(五百木良三)「夜の欠び」(「子規全集」所収)■ …翌二五年の正月子規が駒込の住居を借りて非風と三人でセリ吟といふものをやりました。 セリ吟といふのはセリ売などといふ競の意で。つまり句吟の競争です…
■奥井復太郎「復生自伝」(「奥井復太郎著作全集」第八巻所収)■
…私の父には九人ほどの兄姉があって父はその末子、所謂分家である…
本家は本郷の駒込の追分に大きな邸宅を早くから構えていた…
後年分家である私の家が本家を継ぐ様になり私の身柄が追分の邸に移った…
園遊会でもすると(それ程追分の邸は広かった)すぐ楽隊 ―なつかしののメロディーで今の若い人にも耳なれている「天然の美」なぞを ぷかぷかドンドンやる。当時の手風琴、洋笛なぞがあって、 夏の夕ぐれ、肘かけ窓の所で「青葉しげれる桜井の…」なんて事になる…
本郷の屋敷が旧大名(といっても一万石程度の)の屋敷あとであったから 邸内に東照宮がまつってある。これに稲荷とお富士とを一緒にして、 例年四月十七日が桜には少し遅いが、親戚一門知人出入連中子供達まで集めて例祭がある。 一時は「奥井さんのお祭」とまで云われ縁日の出たのを記憶し、 お神楽の屋台まで集めて賑ったものである。 親父が先に立って仮装行列の発案をした。 私は喜撰法師にされられたり、大津絵の鷹匠にさせられたりして迷惑したものである (というのはその頃キマジメ一本槍でとうていおどけなぞ出来る子供ではなかったから)。 殊に鷹匠の若衆の時なぞは親父一流の凝り方で全部実用品で細工するというわけ。 拳に止まらせる鷹は胴がヌカミソザルで荒神ボーキが尻尾というのだから恐れ入る。 日露戦争のあとの時には露西亜を表徴したワシを 松の木に止まらせた雨戸大の絵を書いて、それに子供大人に弓をひかせ、 当りのいいものに賞品を出した。 子供は子供ですぐそばから射るのだが、私のは足にあったてほめられた。 眼光ケイケイと光り、老松も仲々見事に出来た的だった様に記憶している。 邸内に弓場もあり、お陰で小学時代から弓だけはやった… 贅沢ではないがよく散じた。本家をついで自分の作った財産でないと思っていたせいか、 生活は質素だったが、親類の子供達にはよくいろいろの遊びの機会を与えていた…
春の例祭の事はのべたが冬の甲子、仏事等、いずれも申せば大仕掛ではでだった…
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