4章p84 訂正・追加
「共同浴室は石造で、長屋用、労働者用すなわち合宿所用、事務員用に分かれ」ている(注118)、などと書かれています。
↓
「共同浴室は石造で、長屋用、労働者用すなわち合宿所用、事務員用に分かれ」ている(注118)、「隔日開場」(注116)などと書かれています。
4章p89 追加
建造の翌年、明治45(1912)年6月のある新聞記事には、
「現在は駄菓子屋、八百屋、豆屋、床屋、貸布団屋、氷屋の六戸が開店していて、
一戸は空家」とあります(注116)。
4章p89 訂正・追加
「この他、「巡査宿泊所2戸」も、あったようです(注137)」
↓
「この他、「巡査宿泊所2戸」(注137)や「作事場」もあったようです。
「作事場」では、輸出向けの人形やおもちゃの動物などを作っていたようです(注116)」
4章p91 追加
「明治45(1912)年の『東京毎日新聞』には、
『昨今の公設長屋』という連載記事が載り、
東京市の公設長屋。特殊小学校後援会の玉姫長屋・橋場長屋について
書かれました(注116)」
4章p95 訂正・追加
「別の新聞記事によると、
玉姫長屋の浴場は、住人の「希望者が請負」い、
夫が「三助をして、妻」が「番台に座」わり、「隔日に」営業されていたそうです(注116)」
「作業場では、おもちゃの「刀」などを作っていました(注116)」
「橋場長屋については、どんな建物だったのか、どんな施設、設備があったのか、
まったく分かりません」
↓
「橋場長屋は、ある新聞記事によると、
各住戸、「五畳半」の部屋、
畳半分の大きさの押入れ、一畳の広さの「炊事場」、畳半分の「土間」、「便所」と「空地」という間取りで、
「電灯」と「水道」もあり、
1棟に5戸、全体で6棟30戸、
浴場などは無かったようです(注116)」
5章p102 追加
「ちなみにこの時の救済事業調査会の委員21人(注14)のうち、
9人は社会政策学会という学会の会員でした(注15)。
社会政策学会は、4章に書きましたが、大正2(1913)年、有志が「玉姫町の貸長屋」を見学しています。
救済事業調査会の委員で、見学に参加した人がいたかもしれません」
5章p103 追加
「10月16日、新聞に救済事業調査会の委員の話が載り、
「辛亥救済会の公設長屋も常に満員で結果がなかなか好いそうである」とあります(注16)。
救済事業調査会には玉姫町に東京市が建てた公設長屋のことを知っている委員がいたのです。」
注 訂正・追加
4章 (147) 『社会政策学会論叢 第七冊 「労働争議」』
大正3(1914)年(復刻版 『社会政策学会史料集成 第7巻』 昭和52(1977)年)
(161)『東京毎日新聞』明治45(1912)年6月29日・7月1・2・3日
(神戸大学電子図書館システムで閲覧可)
5章 (14) 『讀賣新聞』大正7(1918)年6月26日朝刊3面
(15) 『社会政策学会論叢 第十一』巻末の「大正七年六月現在 社会政策学会々員名簿」 大正7(1918)年
(復刻版 『社会政策学会史料集成 第11巻 昭和52(1977)年)
(16) 『讀賣新聞』大正7(1918)年10月16日朝刊5面
参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】
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