2009年2月6日金曜日

第159回江戸東京フォーラム
 【 日本近代の集合住宅の原点としての「下宿屋」 】
  高橋幹夫発表原稿




2003年9月22日 主催: 住宅総合研究財団 於:旅館「朝陽館」

以下は、3名の講師のうち、高橋幹夫担当の発表原稿


■はじめに
本日、建築専攻の堀江、地理専攻の松山とともに、
講師を務めさせていただきます、高橋と申します。

初めにご了承願いたいのですが、
私は大学など籍を置く研究者ではありません。
自分なりに、広い意味で「文化」について調べたり考えたりしている
市民に過ぎません。
そんな私に皆さんを前にお話しをする機会をいただき、
大変光栄に思っております。


最初に、私の「文化誌研究家」としての関心事について、お話しておきます。

まず、長崎ならではの桃の節句のお菓子、『桃かすてら』。

ご承知の通り、
長崎はオランダ、ポルトガルなどヨーロッパだけでなく、
中国の文化からも大きな影響を受けてきたところです。
中国では、桃は縁起の良いもの、
長崎名物、ポルトガルが起源とされるかすてらには、
この桃の形をした、『桃かすてら』というものがあります。
この、東西の文化の融合した、長崎ならではの『桃かすてら』、
しかし、旅行のガイドブックで紹介されることも、
みやげ物として売られることもまれ。
その土地独自のものでありながら、観光の対象ではない、
それはなぜなのか、私には大きな謎なのです。

また、フィリピンについて、現在、日本人が、どんなイメージを抱いているか、
それはなぜか、ということを調べてもいます。

フィリピンの女性は、出稼ぎ先の国の多くで、
看護士や介護士、ホテルの従業員、ハウスメイド、ベビーシッターとして
働いているのですが、
日本では、どうやら入国管理政策のため、
良く知られている様にほぼ特定の職種に限られ、
偏ったイメージを持たれてしまったのではないか、
それを今調べているところです。


そして、これからお話する『下宿屋』。

『桃かすてら』、『日本におけるフィリピンのイメージ』、『下宿屋』と、
好奇心にまかせて戯れてきました。

研究としては至らない面、
皆さんに教えていただくことが、
どうしても、あれこれあろうかと思いますが、
どうかよろしくお願いいたします。














■下宿屋・本郷・朝陽館・・・

始めに、今回の会場を、
なぜ、こちら、旅館である『朝陽館本家』さんとしたのか、
その訳をお話しさせてください。

『江戸東京』を語るのに似つかわしい
風情のあるたたずまいはもちろんなのですが、
朝陽館』さん、以前は下宿屋、本日のテーマである下宿屋だったのです。
しかも、明治35年、1902年」の創業、
100年を超える大変長い歴史をお持ちだからなのです。

また、ご主人のご親戚が、
この本、『ひとり語り』、
朝陽館』さんをはじめ、本郷下宿屋
多くの下宿屋のあった本郷の歴史をつづった、
大変貴重な本を私財を投じて書き残していらっしゃいます。

この本を地元の文京区立図書館の地域資料室でみつけたのが、
私どもの調査の出発点になりました。
感謝の念に絶えません。
拝読し、『朝陽館』さんを創業されたご先祖の生まれ故郷も訪ねてみました。
東京から遠く離れた、水辺の集落です。
水辺を好む鳥、白鷺が群れを成して空を舞い、
木々の梢に翼を休めている姿が印象的でした。

その土地を離れて東京にやってくる、
そして下宿屋をやろうと心を決めると東大のある本郷を目指す、
すると楠の大木が目に留まる、
そこには広い敷地に家が建ち、表札には『楠木』とあった、
ウソの様ですが、本当の話なのです、
この楠木さんから土地を借りて下宿屋を始めたそうです。

この楠木は今も健在、いわば本郷の生き証人です。

下宿屋朝陽館』は、たいそう繁盛した様です。

日本紳士録』に、お名前が、長期間掲載されています。
建物の規模も大きく、ある本を見ますと、
朝陽館』は43部屋、『朝陽館別館』は47部屋とあり、
合計90部屋あったと分かります。
また、どちらも木造3階建てでした。

ご親戚も本郷下宿屋、後に旅館をなさっていましたが、
中には、本郷旅館組合の幹部や文京区の区議会議員として
地元に貢献された方もいらっしゃいました。


さて、下宿屋とは、どんな集合住宅だったのでしょうか。
私は、明治時代大正時代の本、新聞などから垣間見てみました。

東京にはどんな学校があるのか、どんな心構え、準備が必要か、
明治20年代から昭和初期に掛けて、
そんな本がたくさん出されていました。

そうした本をできるだけ多く読み、
下宿屋についてどう書かれているか、見てみました。

一方、新聞は、ご存じの方も多いと思いますが、
CD-ROM化され検索に便利な『明治の讀賣新聞』を主に活用しました。

記事の中には『下宿屋通信』という下宿屋を読者の投稿で紹介した連載記事もありました。

また、地域としては、
今も、下宿屋下宿屋を前身とする旅館が現存している本郷を重点的に調べました。











■下宿屋・神田・本郷・・・


昔の下宿屋のガイドブックなどを見るとわかるのですが、
本郷下宿屋は、東大生ばかりでなく、
神田川を挟んで隣り合う神田の、
法政、中央、明治、日大などの学生も得意客としていた様です。
東大の前身である、東京医学校東京開成学校も元々は神田にありました。

東京医学校本郷に移転したのは、明治9年、1876年。
東京開成学校は、明治10年、1877年に東大法学部・理学部・文学部とありますが、
神田から本郷への移転は明治17年、1884年になってのことです。

本郷区神田区下宿屋の軒数や学生数を比べてみます。
本郷区というのは、文京区のおおよそ東半分に当たります。
下宿屋の軒数は、
明治24年、1891年までは、神田の方が本郷より多かったのですが、
例えば、明治35年、1902年、神田の学校の学生数は約9100人、
本郷は約6700人で、
学生数は神田本郷を大きく上回っているものの、
下宿屋は、本郷約450軒、神田約360軒で、
神田より本郷の方が多いのです。

昔の本には、
神田より本郷下宿屋が多くなったのは、
神田は街が栄え土地や家賃が高くなったが、
一方、本郷は空き地が多かったからだ」
という意味のことが書かれています。

その後、長期間に亘って
本郷東京の中で最も下宿屋の多い地域でした。

これも私どもが本郷を重点的に調べた理由です。














■下宿屋・書生・賄い・女中・・・


さて、下宿屋が、
アパートやマンション、団地など現在の集合住宅と大きく違うのは、
ひとつには、住んでいた多くが、
今でいう学生書生だったことでしょう。

書生は大学生だけではありません。

東京での就学の案内書の多くや下宿屋の案内書には、
大学ばかりでなく、
医学や法学などの専門学校、
現在の教育学部に当たる師範学校、高等学校、中学等も挙げられています。

また、実際には学生でなくても、
故郷の両親には東京の学校に入学すると言って仕送りを受け、
下宿屋には学生と称して入居していた書生も少なくなかった様です。

東京にはいったいどのくらいの書生がいたのか、
正確な把握は難しいのですが、
例えば、当時の文部省の年報を見て計算すると、
明治8年、1875年、東京の学校の学生は、総数約8100人、
これが、明治35年、1902年は約29200人となります。

近代という時代に、学生は急速に数を増やしていったのです。

昭和3年、1928年に東京市が行なった下宿屋を対象とするアンケート調査によると、
下宿屋に住んでいた人のうち学生の占める割合は、
当時の東京15区全体では約63%、
学生相手の下宿屋の多かった本郷区で69%、
神田区で55%、牛込区で75%、
男性の割合は全体で約98%でした。


現在の集合住宅との大きな違いは、
なんといっても、住み込みの女中の存在です。

食事は『賄い』と呼ばれ、下宿屋によって朝夕の二食、朝昼晩の三食、
ひとりひとりの部屋に女中が上げ下げしていました。

今でも旅館などで使われている、『ひとり膳』に、
一人分のご飯茶碗、おかず、味噌汁、
下宿屋によっては、ご飯のお代わり用のおひつ、湯呑茶碗、急須、
これだけ載せたお膳を何人分も重ねて、
女中は2階や3階の部屋にも上げ下げしていたのです。

本郷のある下宿屋では、
上の階は経験の浅い女中、下の階は経験の長い女中
と担当を分けていたそうです。

新聞や郵便も女中が部屋に届けます。
電話の取次ぎもします。

女中に幾らか渡せば靴を磨いてくれる下宿屋もありました。

手を叩いたり、呼び鈴で女中を呼び、
お茶やお菓子、ビールや酒の肴も部屋まで持ってきてもらう。

希望のお菓子がなければ、
また文房具なども、
代金と手数料を払って買いに行ってもらう。

友人などを招いた時は、
お茶やお菓子はもちろん、
客膳』と呼ばれた来客用の食事を頼む。

暖房用の炭や照明用の油も、
下宿人各自が店で買ってくるのではなく、
下宿屋から買い、
部屋代や食事代と一緒に払っていました。

入浴については、
昭和3年、1928年に東京市が行った調査によると、
風呂のあった下宿屋は、
当時の東京15区全体では約25%、
本郷区で35%、神田区で40%でした。

女中は休む間もなかったからでしょうか、
ある下宿屋では女中への申しつけは夜10時までに限られていました。
下宿人の中には女中にチップを渡す者もありました。


こんな具合ですから、
下宿屋では座ったまま何でもできるのだ」と書かれている本もありました。

おのずと生活が乱れることもあったのでしょう。
気楽な下宿屋に住み、夜は、部屋では酒を飲んで大きな声で歌を歌い、
学友と連れだって街に繰り出し、
牛鍋屋寄席遊郭で遊んでいたのです。

今でしたらワンルームマンションを根城に、
カラオケ、映画、コンサートにデート、といったところでしょうか。


学生風紀問題』という本には、
学生の風紀が乱れる一番の原因は下宿屋だと書かれています。

下宿屋の改良』と題された新聞記事は、
世の中には改善すべきことが多いが、
なかでも下宿屋の改良が重要だ、としています。

他にも、いくつもの本に、
下宿屋

「堕落の根源」、
学生の堕落機関」、
学生を腐敗させる魔の洞窟」、
「悪い書生の巣窟」、
「罪悪の養成所」

などと書かれています。

が、下宿人たちは、
下宿屋という住まいで身辺のことに煩わされることなく、
都市での生活を満喫していたとも言えるのではないでしょうか。












■下宿屋・紳士録・奥井館・・・


一方、下宿屋が、下宿人に至れりつくせりだったのは、
それが利益となるからです。

食べ物、飲み物、買い物等、いずれも、
原価にいくらか上乗せして請求するのです。

資産家による下宿屋経営、
下宿屋で得た収益で田畑や貸家を買った例もあります。

下宿屋の経営者の中には、大きな収益をあげ、
日本紳士録』に納税額が記載され政財界人とともに名を連ねた人もいました。


本郷の『奥井館』という下宿屋は、
日本橋での商売を止め、
本郷に約4000坪、約1300平方メートルもの土地を買い、
下宿屋や貸家を始めたそうです。

現在の岡山県備中岡田藩藩主、伊東家の武家屋敷だった土地です。

毎年春には屋敷の庭に楽隊や縁日を出し、
親戚や知人、出入りの商人を集めて祭をし、
近所の人達から『奥井さんのお祭』と呼ばれたそうです。

ちなみに『奥井館』の二代目主人の子、奥井復太郎は、
のちに都市社会学の研究者として知られ、
慶応大学の塾長を務め、
現在も日本都市学会の通称『奥井賞』にその名を留めている人物です。

奥井復太郎が活躍した時代、
アメリカのある都市社会学者はホテル住まいについて研究し本を書いていますが、
奥井復太郎は、残念なことに下宿屋を研究したことはなかったようです。

また、今も木造3階建ての建物が建造された時の外観をほぼとどめている
本郷館』を建てたのも、
代々、造り酒屋兼庄屋という家柄で
明治に入ってからは北海道での石油や石炭の採掘事業なども手掛けた一族です。

後に『本郷館』を下宿屋として継承した方も、
買い取った時こそ親族の支援が必要だったそうですが、
経営が軌道に乗ると、その利益で田畑や貸家を買ったそうです。

後程、写真をご覧いただく『泰明館』も、岩手の銀行家一族が創業者で、
ご主人の使っていた座敷には格式の感じられる床の間や違い棚、欄間がありました。
当時からの屏風や香炉を拝見させていただいたこともあります。

本郷館』と『泰明館』も、『奥井館』同様、敷地は元武家屋敷で、
現在の愛知県、三河岡崎藩藩主、本多家の所有地でした。

本郷下宿屋で、『日本紳士録』に載っているのが今のところ確認できているのは、
約20軒、その経営者約30人で、
最初にも触れました、こちら『朝陽館』さん、
そして『奥井館』、『本郷館』、現在本郷唯一の賄い付下宿屋『北辰館』も載っています。
奥井館』、『北辰館』などのご主人は、本郷区区議会議員も務めていました。
成功した下宿屋の家庭は教育熱心でもあったようで、
下宿屋のこども達の中には、
小学校は公立ながらも名門とされた誠之小学校に越境入学、
大学は東大や京大、早稲田、慶応に学んだ方も少なくなく、
女性が大学に進学することの少なかった時代に日本女子大を卒業した方もいました。

 どの下宿屋も営利本位だったわけではないでしょうが、
当時のいくつもの本に下宿屋

「貪欲」
「荒涼」
「利益が第一の目的」
「愛情がなく冷ややか」
「親切でもなく人情もない」
「父や母の愛、きょうだいの温かい情もない」

などとも記されています。

下宿人同士の関係も

「異分子の寄り合いなので交流ははなはだ疎遠」
「隣の下宿人とは目だけの付き合い、言葉を交わすこともない」

といった具合です。

こうした、下宿屋の営利性、希薄な人間関係にも、
近代都市ならではの、個人主義、個人の匿名性をうかがうことができると思います。


下宿屋が、東京という近代都市を特徴づける存在であったことは、
下宿屋を取り締まる警察の規則が制定された経緯にも認められると思います。
明治19年、1886年、内務省から、
街路、乗合馬車人力車、そして下宿屋などを取り締まる規則のひな形が、
全国の各府県に示され、
これを受け、翌年の明治20年、1887年に東京でも、
警察が下宿屋などの規則、『宿屋営業取締規則』を定めたのです。

街路や乗合馬車人力車と同時に、近代都市に急速に数を増したものとして、
社会的ルールが必要とされるようになったということではないでしょうか。












■下宿屋・旅館・宿屋営業取締規則・旅館業法・・・

さて、先程お話した、下宿屋での生活を思い出していただけるでしょうか。

布団の上げ下ろし、食事の一人膳での上げ下げ、
用命を受けて部屋に運ばれるお茶やお菓子、お酒。

お客に対する、従業員による、こうしたサービスは、
今も旅館で行われているのは、皆さんご存じの通りです。
それでは、なぜ、下宿屋旅館には共通性があるのか、
それは、下宿屋旅館が歴史を共有しているからなのです。

そもそも、人を住まわせ、食事を出すことが警察から許されていたのは、
明治の初期まで、旅館だけでした。
後に、下宿屋にも認められますが、
その後も旅館には下宿人が住んでいました。

この意味で、下宿屋の起源は旅館、そう私は考えています。

下宿屋にも下宿人だけではなく、宿泊者もいました。

例えば、博覧会見物の客や、東京の病院に通院する人、
地方の代議士や政治活動で国会会期中に東京に滞在する人、です。

明治時代上野公園での博覧会を控え、遠方からの見物客の宿泊に、
寺や下宿屋の経営者約300人が一同に会し
料金やお客の対応などを話しあったそうです。

ある下宿屋のガイドブックを見ると、
何軒かの本郷下宿屋は、場所や料金などの他、「病院」という項目を設け、
東大の大学病院入院、通院のための宿泊に便利と書かれています。

下宿屋に住んでいる下宿人も、
まるで宿泊客の様に
「泊っていたお客さん」「宿泊者」「宿泊人」と言われることもありました。

下宿屋旅館の兼業も多く、
当時の職業別電話帳や旅館のガイドブックには、
兼業であるのが分かる様、印が付けられています。

また、警察の統計には、
下宿屋旅館、それぞれの軒数と合わせ、兼業の軒数も載っています。

旅館下宿屋になった例、下宿屋旅館になった例もあります。

本郷では、第二次世界大戦後、
朝陽館』さんはじめ多くの下宿屋
主に修学旅行の団体を得意客とする旅館へと転業、
下宿屋街本郷は、旅館街本郷へと変わっていきました。

法律や自治体の規則においても、
先程触れた『宿屋営業取締規則』は、下宿屋旅館、共通の規則で、
明治時代に制定後、昭和23年、1948年まで存続し、
新憲法のもと、現行の『旅館業法』に発展、法制化されたのです。

そのため、下宿屋の法的位置づけは、
現在も、一見縁のないような名の法律、『旅館業法』でなされているのです。


下宿屋は、アパートやマンション、団地などの集合住宅と違って、
居住ではなく、宿泊を第一の目的とする施設、旅館を起源とし、
旅館と密接な関係を持ってきた集合住宅なのです。














■下宿屋・日本の近代・集合住宅・・・


この様に、下宿屋は、
欧米からもたらされた、近代主義を背景とする集合住宅でも、
欧米の集合住宅に倣ったものでもない、
日本近代独自の集合住宅なのです。

また、軒数についても、
同潤会のアパートメントが、
大正15年、1926年から昭和9年、1934年までに総戸数、約2600個、そのうち単身者向けが約650戸、建設されたのに対し、
下宿屋は、先程も触れました、昭和3年、1928年の東京市による調査によれば、
当時の15区全体で客室数は、約6600部屋です。

また、警察が統計を取り始めた明治20年、1887年、
当時の区部全体で約1500軒、
最も軒数の多かった明治40年、1907年には、
現在の23区に相当する範囲で約2300軒、
同潤会アパートの建ち始めた昭和元年、1926年、
おそらくは関東大震災の罹災で約900軒と減少しますが、
その後も、生活様式のいわゆる欧米化近代化が進んだとされる時期も、
軒数は増加し続け、
太平洋戦争開戦直後の昭和17年、1942年、約2100軒を数え、
その後減少に転じます。


下宿屋は、思うに、いわゆる近代化欧米化とは直接の関連がないゆえ、
これまで日本近代史近代建築史の上では、
視線を向けられることがまれだったようですが、

下宿人の生活や人間関係、起源、軒数などから、
日本近代、とりわけ近代都市東京を特徴づける、
日本独自の都市的な集合住宅といえましょう。」


関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。


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