2009年2月24日火曜日

【 受難の微笑 】(本郷の下宿屋/旅館 朝陽館 資料




小林要吉(1898?~1933)著
『受難の微笑』 (大正15(1926)年)

国会図書館所蔵

著者は、本郷の下宿屋(後に旅館)朝陽館に滞在、
本書で以下の通り、朝陽館に言及。


「弓町の朝陽館へこした。
お子さんが英馬と同じ元町小学校へ出ているので、
監督旁々下宿して貰いたいとの事であった。

この朝陽館の主人というのは、
まだ東京へ出て十年ほどにしかならない位の事であったが、
困苦して本郷では有名な下宿屋に仕上げたのである。

毎朝主人が真先に立って、番頭をつれて魚河岸と野菜市場へ買出しに行ってくる。
この奮励振りが、到頭この大きな下宿にしてしまったのである」(p142~143)

「二十四歳に東京に出てから、もう三十歳になった今日まで、足かけ七年間
朝陽館に我がままの限りをつくしていたのであるが、
もう朝陽館の長男の忠雄さんも、十八歳になったし、
次男の公ちゃんも十五歳になったので、
監督の必要も大して要らない」(p180)

「左の眼が赤くなって眼やにが沢山出ている。
それが間もなくひどい充血を起こして
非常に注意したにも拘わらず右眼に移ってしまった。

医者は、「三四日氷で冷やしつづけよ」というのである。

英馬には苦しい事であった。
遠い神田にいて用事の多くを持っている妹を招ぶわけにはならない。
看病して貰いたくとも頼むべき人がいない。

仕方なく朝陽館へ。

「忠雄さんにぜひ来て頂きたい。
序に一貫目ほどの氷を買って来て下さい」

と電話をかけた。

もう十八歳になっていた忠雄さんは、すぐ氷を持って来てくれた。
そして両の眼にそれを当てて、看病してくれるのである。

「忠雄さんすまないね。用事もあるだろうに呼びたてて」

「どういたしまして。
どんな用事でも、出来る事ならお安い御用です!」

と快く看病してくれるのである。

「お父さんからも、お母さんからも、よく看病して来い」

と言われて来たといって、
何くれとなく看取ってくれるのである。

英馬は忠雄さんところのお父さんお母さんのこうした心持ちには常に感謝している。

龍岡町にいる時、
元町の方へ出かけて春木屋で蕎麦を食った。

「蕎麦屋さん!私いただきましたけれど財布を忘れて来て一文もありませんが」
「はあ!・・・」

仕方ない客だ。
食い逃げでもするつもりで来たのかも知れない。
大面して食いやがってといった顔つきで、
ガラリと変わるのは商人の根性である。
なるほど商売人からすれば、
金があってのお得意さまで下にもおかないわけだが、
愈々金がないと定まれば、
着物を剥いでも取らねばならない。
それでも取る事が出来なければ足蹴にしても放り出さねばならない。
主人は今其の顔付きをしている。
英馬は、

「電話をおかし下さい。
料金は持っておらないが御損はおかけしませんから」

主人はいぶかしげな顔で貸すともなく、
貸さないともなく

「はあ・・・」

朝陽館ですか、
今春木屋へよったのですがあいにく財布を忘れて来ましてね。
後でお払い致しますが、
お家の帳面につけて頂くように此処へお願いしていきますから、
何卒よろしく」

主人も番頭もさげすむ眼つきで英馬を見ている。
とにかく主人に頼んで春木屋を出た。

其の後へ

「瀧澤先生はいらっしゃいますか、
お金を持ってきたところです」

と忠雄さんがせきこんで駆け付けた。

忠雄さんは、

「蕎麦は帳面でも何でもよいが、
財布をお忘れになられては何処へいらっしゃるにも御不便だ、
早くに此の五円札を持っていってお上げなさい」

とお母さんから言いつけられて後を追ったのだ。

英馬は今又其の忠雄さんの手を煩わして、
両の眼にガーゼを当て、其の上に氷をのせ、
仰向きに寝たまま、全然光を見ないでいる」(p204 ~207)



 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







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